「悔いのない人生をおくりたい」というのは、人間だれしも願うこと。
先日このテーマに関する記事を読んだので、今日はそれでひとつ書くことにしたい。
【スポンサード リンク】
こう書かれると、誰だって前者を選びたいに決まっている。
自分の人生に失望して死んでいくなんてゾッとするし、そうならないために私はセミリタイアしたと言ってもいいくらい。
このブログでも、後悔死問題でこんな記事を書いてきた。
こんなに書くなんて、どんだけ後悔したくないのよ。
自分でつっこみたくなるくらい、そういう死に方はイヤなのね。
ただ一方で、「死ぬときってそれどころじゃなくね?」とも思ったりして。
死因が事故や災害だったら、そんなこと考えている余裕はないだろう。
病気や老衰だったとしても、死ぬ瞬間は意識がもうないか朦朧としているかで、自分が死ぬことすら認識できないんじゃないかな。
そんなときに「あのときこうすればよかった」なんてしみじみ振り返るヒマなんてないでしょうよ。
「人生が走馬灯のようによみがえる」なんてよく聞くけど、それ経験した人いるの?
いたとしてもその人はもう死んでいるわけで、誰からその話を聞いたのか不思議だ。
「後悔しながら死ぬ人」なんて本当にいるのかしら。
生と死のはざまをさまようセミゴースト状態でかろうじて認識できるとしたら、自分を看取る人の存在だろう。
子どもや孫に囲まれて「おじいちゃーん」と泣かれた日には、「こんなにすばらしい家族に囲まれて幸せな人生だった」というあったかい気持ちで死ねるかもしれない。
逆に誰も見送ってくれる人がいなければ、「私の人生暗かった…ぐす」と涙のあとをひとすじ残すかもしれない。
そう考えるとやっぱり結婚はした方がいいし、離婚はしない方がいい。
子どもはたくさん産み育てた方がいいし、親戚づきあいも大事にした方がいい。
今の私はどう転んでも後者の道まっしぐらなので、孤独に死んでいく可能性はきわめて高い。
ホント、さびしい死に方ですよ。
自分で選んだ道だから、そんなラストも甘んじて引き受ける覚悟ですが。
死んだらすべて終了だと思っているので、幸せだろうと後悔していようと実はあまり重要じゃない。
そんな思いも死んだ瞬間にぷっつり切れてなくなるから。
問題は、死ぬ前から「いつ死んでもいいや」と思えるだけの楽しい人生を送っていたかどうかだ。
そういう意味では、死ぬ間際まで何も考えずに仕事一筋という人生も決して悪くない。
だってそういう人は、死ぬときだって仕事のことしか頭にないはずだもの。
「仕事いっぱいしたぞ!」と満足して死ねるんじゃないかな。
私は「好きなこといっぱいしたぞ!」と満足して死にたいので、45歳で「セミリタイアな日々」に突入した。
観たい映画も読みたい本もいっぱいあるから、今死ぬのはまだ早い。
そうだなあ、あと10年か15年ぐらいこの生活を続けられれば、次の思考ステージに行けるかなー。
つまり、「いつ死んでもいいや」という境地ね。
65歳で定年を迎える同世代よりも20年は多く下駄をはかせてもらっているので、そのくらいの歳に死んだとしても、さほど後悔しないで済むんじゃないかしら。
そして死ぬ瞬間は孤独というね。
仕方ない。それもまた人生さ。
先日このテーマに関する記事を読んだので、今日はそれでひとつ書くことにしたい。
和田秀樹が見た「後悔しながら死ぬ人、満足して死んでいける人」を分ける意外な要素
死に至るまでには、2つの道があります。
1つは、幸せな道です。最期に「いい人生だった。ありがとう」と満足しながら死んでいける道です。もう1つは、不満足な道です。「ああ、あのときにこうすればよかった」とか「なんでこんなことに」と後悔しながら死んでいく道です。
(プレジデントオンライン 2022/9/1)
こう書かれると、誰だって前者を選びたいに決まっている。
自分の人生に失望して死んでいくなんてゾッとするし、そうならないために私はセミリタイアしたと言ってもいいくらい。
このブログでも、後悔死問題でこんな記事を書いてきた。
- 週刊ポスト「ちゃんと生きていれば、死ぬのは怖くない」(2015/1/28)
- NHKスペシャル「人生の終い方」(2016/5/24)
- あらかじめ知っておくべき「死ぬ瞬間の5つの後悔」(2017/8/23)
- 「毎日を最大限に生きる」ために最近始めたこと(2017/11/16)
- 人生最後の日に後悔しないために(2019/12/12)
こんなに書くなんて、どんだけ後悔したくないのよ。
自分でつっこみたくなるくらい、そういう死に方はイヤなのね。
ただ一方で、「死ぬときってそれどころじゃなくね?」とも思ったりして。
死因が事故や災害だったら、そんなこと考えている余裕はないだろう。
病気や老衰だったとしても、死ぬ瞬間は意識がもうないか朦朧としているかで、自分が死ぬことすら認識できないんじゃないかな。
そんなときに「あのときこうすればよかった」なんてしみじみ振り返るヒマなんてないでしょうよ。
「人生が走馬灯のようによみがえる」なんてよく聞くけど、それ経験した人いるの?
いたとしてもその人はもう死んでいるわけで、誰からその話を聞いたのか不思議だ。
「後悔しながら死ぬ人」なんて本当にいるのかしら。
生と死のはざまをさまようセミゴースト状態でかろうじて認識できるとしたら、自分を看取る人の存在だろう。
子どもや孫に囲まれて「おじいちゃーん」と泣かれた日には、「こんなにすばらしい家族に囲まれて幸せな人生だった」というあったかい気持ちで死ねるかもしれない。
逆に誰も見送ってくれる人がいなければ、「私の人生暗かった…ぐす」と涙のあとをひとすじ残すかもしれない。
そう考えるとやっぱり結婚はした方がいいし、離婚はしない方がいい。
子どもはたくさん産み育てた方がいいし、親戚づきあいも大事にした方がいい。
今の私はどう転んでも後者の道まっしぐらなので、孤独に死んでいく可能性はきわめて高い。
ホント、さびしい死に方ですよ。
自分で選んだ道だから、そんなラストも甘んじて引き受ける覚悟ですが。
死んだらすべて終了だと思っているので、幸せだろうと後悔していようと実はあまり重要じゃない。
そんな思いも死んだ瞬間にぷっつり切れてなくなるから。
問題は、死ぬ前から「いつ死んでもいいや」と思えるだけの楽しい人生を送っていたかどうかだ。
そういう意味では、死ぬ間際まで何も考えずに仕事一筋という人生も決して悪くない。
だってそういう人は、死ぬときだって仕事のことしか頭にないはずだもの。
「仕事いっぱいしたぞ!」と満足して死ねるんじゃないかな。
私は「好きなこといっぱいしたぞ!」と満足して死にたいので、45歳で「セミリタイアな日々」に突入した。
観たい映画も読みたい本もいっぱいあるから、今死ぬのはまだ早い。
そうだなあ、あと10年か15年ぐらいこの生活を続けられれば、次の思考ステージに行けるかなー。
つまり、「いつ死んでもいいや」という境地ね。
65歳で定年を迎える同世代よりも20年は多く下駄をはかせてもらっているので、そのくらいの歳に死んだとしても、さほど後悔しないで済むんじゃないかしら。
そして死ぬ瞬間は孤独というね。
仕方ない。それもまた人生さ。
70歳から一気に老化する人しない人 | |
和田 秀樹 Amazonで詳しく見る |
↓↓↓↓↓ランキング参加中↓↓↓↓↓ | |
---|---|
にほんブログ村 |
人気ブログランキング |
「あらかじめ知っておくべき死ぬ瞬間の5つの後悔」⇒これって結構有名ですよね。私はこの言葉を知った時に、Wordに転記しPC作業机の目の前の壁に貼り付けています。この内2番目の「働き過ぎなければよかった」は奇しくも、早期退職という形で実現出来たのですが、残りの4項目はまだ道半ば・・・。いずれ到達するとは思いますが、その前に死んでは意味がないので、何とかしなければならないと思っています。
似たような話に「モノを持つ基準」と言うのがあって、これは断捨離などの時の心構えを説いたもので「まだ使えるかどうかどうかではなく、それをつかうかどうか」だそうです。確かになるほどと思いました。
「人生が走馬灯のようによみがえる」なんてよく聞くけど、それ経験した人いるの?⇒これ、私経験したことがあります。入社1年目の新入社員研修中に同期3人でドライブ中に、崖にぶつかる事故を起こし、私は車内でメガネが吹っ飛んでしましました。この時、一瞬だったと思うのですが、それまでの20数年間の人生が走馬灯のように脳内に駆け巡りました。多分、心が死を意識したせいだと思っています。
話は変わりますが、今日(9/3)コロナワクチンの4回目接種を受けてきたのですが、副反応(毎度同じく接種部位の痛み)が酷くて苦しんでおります。もう、いい加減副反応のないワクチンを開発して欲しいと願っています。