(「72回目の終戦記念日のすごし方(前編)」からの続き)
今年の終戦記念日は、お昼前に札幌護国神社を参拝し、帰宅後にPCで「この世界の片隅に」を観た。
今日の記事は、その続きだ。
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この日の夜は、録画してあったNHKスペシャルを一気に消化した。
観たのは、この8月、怒涛のごとく放送された、
広島市による、56万人分の「原爆被爆者動態調査」を元に、誰が、いつ、どこで、なぜ死んだのかを、NHKがすべてデータ化。
そのビッグデータを解析して作ったのが、この番組だ。
原爆によってたくさんの人が、さまざまな亡くなり方をした。
崩壊した建物の下敷きとなり、火災から逃げられずに「圧焼死」した人々。
原爆の光線で血管を焼かれたせいで、内臓がダメージを受けて、数日後に亡くなった人々。
爆心地で放射能塵を吸い込み、内部被ばくによって亡くなった人々。
爆心地から離れた場所で、黒い雨にさらされて亡くなった人々。
北朝鮮の脅威が現実のものとなっている昨今、72年前の悲劇が、とても恐ろしく感じられた。
アメリカが保管していた空襲に関する詳細な記録を、これまたNHKがデータ化して、「本土空襲マップ」なるものを作成。
これにより、アメリカの日本攻撃がどのように変わっていったのか、とてもよくわかった。
当初は軍事施設だけを標的にしていたのだが、その結果が芳しくなく、ヤンキー司令官は無差別爆撃へ方針転換。
さらに日本側の攻撃が衰えてくると、それまでB-29を護衛していた戦闘機までもが攻撃にまわり、動くものすべてを機銃掃射するようになった。
装備されていたガンカメラがとらえた、戦闘機が地上を撃ちまくる様子は、まさに本物の殺戮で、ただただ恐ろしいのひとこと。
駅で撃たれて一命をとりとめた女性が、今は語り部となって、子供たちに戦争の愚かさを訴えていた。
平和を願う彼女の言葉すべてに同意します。
ロシアで行われた軍事裁判の音声テープをもとに、731部隊による人体実験の実態を明らかにした。
実験を指揮していたのは、京大や東大などから派遣されたエリート医学者たち。
捕虜たちにチフス菌を飲ませ、ペスト蚤をたからせ、人工的な凍傷にかからせる。
実験台にされた捕虜は、そこで死ぬか、生き残ってもまた別の実験台にされるかのどちらかで、結局生きて出られた者はいない。
もっとも驚いたのは、この細菌兵器が実際に使用されたということ。
中国の軍隊相手に2回使用した上に、なんと民間の集落にもペストやコレラをばらまいたらしい。
裁判の被告となった兵士たちが、肉声で語る「悪魔の実験」は、背筋が凍る思いがした。
8月15日の終戦のあとに起こった、南樺太での悲惨な地上戦。
大本営からは戦闘行動停止の指示が出ていたものの、札幌第5方面軍は「樺太をソ連軍から死守せよ」との指令を、樺太88師団に出していた。
実際、ソ連の動きには不穏なものがあったのだろうが、この指令によって、もしかしたらしなくてもいい戦いをしたのかもしれない。
人員も武器も不足するなか、南樺太にいた全日本人がこの戦闘に駆り出され、竹やりを持ったまま死んでいった。
そして、港を目指す450キロにおよぶ逃避行では、動けなくなった子供を母親が崖から落としたり、手榴弾で集団自決を図るなど、凄まじい地獄絵図が繰り広げられたという。
8月20日、樺太師団はソ連と停戦交渉するも、ソ連側は「進駐を続ける」と拒否したため、交渉は決裂。
さらに多くの住民たちの命が、ソ連軍によって奪われた。
結局、停戦が成立したのは、終戦から1週間がたった8月22日。
もしかしたら、日本の本当の終戦記念日は、この日なのかもしれない。
太平洋戦争でもっとも無謀な作戦と呼ばれる、「インパール作戦」。
補給を度外視して470キロを行軍するという、このトンデモ作戦によって、3万人の兵士が死んでいった。
死因は、戦闘によるものよりも、餓死や病死、そして人肉目的の仲間同士の殺しあいの方が多かったという。
イギリス軍の機密資料が公開され、この作戦に関わる日本軍幹部17名の尋問調書をNHKが調べた。
するとどうやら、ビルマ方面第15軍の牟田口司令官が、一番の悪玉のようだ。
牟田口に仕えた斎藤少尉の日誌を読むと、この作戦がいかに兵站を無視し、大和魂だけで乗りきろうとしていたかが、よくわかる。
部下の命をなんとも思わない異常な思考回路は、牟田口のみならず、当時の陸軍全体にはびこっていたのかもしれない。
インパールを生き残った老人たちの証言は、想像を絶するものばかりで、平和ボケした私には「よく帰ってこられました」としか言えない。
最後に、96歳になった斎藤少尉が車いすで出てきたのが、唯一の救いだった。
戦後72年たって初めて出てきた資料や、ビッグデータの解析をもとにしており、どれも今でなきゃ作れない番組だった。
道民の私には、「樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇」が、もっとも衝撃的だったな。
今年の終戦記念日は、お昼前に札幌護国神社を参拝し、帰宅後にPCで「この世界の片隅に」を観た。
今日の記事は、その続きだ。
この日の夜は、録画してあったNHKスペシャルを一気に消化した。
観たのは、この8月、怒涛のごとく放送された、
- 「原爆死~ヒロシマ 72年目の真実」(2017/8/6放送)
- 「本土空襲 全記録」(2017/8/12放送)
- 「731部隊の真実 ~エリート医学者と人体実験~」(2017/8/13放送)
- 「樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇」(2017/8/14放送)
- 「戦慄の記録 インパール」(2017/8/15放送)
原爆死~ヒロシマ 72年目の真実
広島市による、56万人分の「原爆被爆者動態調査」を元に、誰が、いつ、どこで、なぜ死んだのかを、NHKがすべてデータ化。
そのビッグデータを解析して作ったのが、この番組だ。
原爆によってたくさんの人が、さまざまな亡くなり方をした。
崩壊した建物の下敷きとなり、火災から逃げられずに「圧焼死」した人々。
原爆の光線で血管を焼かれたせいで、内臓がダメージを受けて、数日後に亡くなった人々。
爆心地で放射能塵を吸い込み、内部被ばくによって亡くなった人々。
爆心地から離れた場所で、黒い雨にさらされて亡くなった人々。
北朝鮮の脅威が現実のものとなっている昨今、72年前の悲劇が、とても恐ろしく感じられた。
本土空襲 全記録
アメリカが保管していた空襲に関する詳細な記録を、これまたNHKがデータ化して、「本土空襲マップ」なるものを作成。
これにより、アメリカの日本攻撃がどのように変わっていったのか、とてもよくわかった。
当初は軍事施設だけを標的にしていたのだが、その結果が芳しくなく、ヤンキー司令官は無差別爆撃へ方針転換。
さらに日本側の攻撃が衰えてくると、それまでB-29を護衛していた戦闘機までもが攻撃にまわり、動くものすべてを機銃掃射するようになった。
装備されていたガンカメラがとらえた、戦闘機が地上を撃ちまくる様子は、まさに本物の殺戮で、ただただ恐ろしいのひとこと。
駅で撃たれて一命をとりとめた女性が、今は語り部となって、子供たちに戦争の愚かさを訴えていた。
平和を願う彼女の言葉すべてに同意します。
731部隊の真実 ~エリート医学者と人体実験~
ロシアで行われた軍事裁判の音声テープをもとに、731部隊による人体実験の実態を明らかにした。
実験を指揮していたのは、京大や東大などから派遣されたエリート医学者たち。
捕虜たちにチフス菌を飲ませ、ペスト蚤をたからせ、人工的な凍傷にかからせる。
実験台にされた捕虜は、そこで死ぬか、生き残ってもまた別の実験台にされるかのどちらかで、結局生きて出られた者はいない。
もっとも驚いたのは、この細菌兵器が実際に使用されたということ。
中国の軍隊相手に2回使用した上に、なんと民間の集落にもペストやコレラをばらまいたらしい。
裁判の被告となった兵士たちが、肉声で語る「悪魔の実験」は、背筋が凍る思いがした。
樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇
8月15日の終戦のあとに起こった、南樺太での悲惨な地上戦。
大本営からは戦闘行動停止の指示が出ていたものの、札幌第5方面軍は「樺太をソ連軍から死守せよ」との指令を、樺太88師団に出していた。
実際、ソ連の動きには不穏なものがあったのだろうが、この指令によって、もしかしたらしなくてもいい戦いをしたのかもしれない。
人員も武器も不足するなか、南樺太にいた全日本人がこの戦闘に駆り出され、竹やりを持ったまま死んでいった。
そして、港を目指す450キロにおよぶ逃避行では、動けなくなった子供を母親が崖から落としたり、手榴弾で集団自決を図るなど、凄まじい地獄絵図が繰り広げられたという。
8月20日、樺太師団はソ連と停戦交渉するも、ソ連側は「進駐を続ける」と拒否したため、交渉は決裂。
さらに多くの住民たちの命が、ソ連軍によって奪われた。
結局、停戦が成立したのは、終戦から1週間がたった8月22日。
もしかしたら、日本の本当の終戦記念日は、この日なのかもしれない。
戦慄の記録 インパール
太平洋戦争でもっとも無謀な作戦と呼ばれる、「インパール作戦」。
補給を度外視して470キロを行軍するという、このトンデモ作戦によって、3万人の兵士が死んでいった。
死因は、戦闘によるものよりも、餓死や病死、そして人肉目的の仲間同士の殺しあいの方が多かったという。
イギリス軍の機密資料が公開され、この作戦に関わる日本軍幹部17名の尋問調書をNHKが調べた。
するとどうやら、ビルマ方面第15軍の牟田口司令官が、一番の悪玉のようだ。
牟田口に仕えた斎藤少尉の日誌を読むと、この作戦がいかに兵站を無視し、大和魂だけで乗りきろうとしていたかが、よくわかる。
部下の命をなんとも思わない異常な思考回路は、牟田口のみならず、当時の陸軍全体にはびこっていたのかもしれない。
インパールを生き残った老人たちの証言は、想像を絶するものばかりで、平和ボケした私には「よく帰ってこられました」としか言えない。
最後に、96歳になった斎藤少尉が車いすで出てきたのが、唯一の救いだった。
戦後72年たって初めて出てきた資料や、ビッグデータの解析をもとにしており、どれも今でなきゃ作れない番組だった。
道民の私には、「樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇」が、もっとも衝撃的だったな。
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