「無職になると困ること」シリーズの第5弾は、会社を辞めたらなくなった肩書きについて。
でも今日の記事は、今までとはちょっと違うぞよ。
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でも今日の記事は、今までとはちょっと違うぞよ。
思えば、物心ついた頃から、肩書きのついた人生だった。
学生時代は、学校名が自分の名前の前についていた。
自ら名乗ることは少ないけど、初対面の相手から最初に訊かれるのは、「どこの学校に通ってるの?」だった。
学校内であれば、「○年○組の」という肩書きがつく。
高校までは帰宅部だったけど、大学では体育会に入ったので、「○○部の」という肩書きも増えた。
アルバイトもしていたので、お客さんや、その業界の人と話す時は、バイト先の店名が最初についた。
就職して社会人になると、今度は会社名が肩書きとなった。
初めて名刺を作った。
相手に渡すときは、自ら「○○○○の」と、社名を頭につけて自己紹介するのが当たり前になった。
入社して5年目になると、今度は役職がついた。
それまでは「○○さん」だったのが、ある日を境に「○○主任」と呼ばれるようになった。
それ以降、社内外を問わず、仕事の関係者からは、役職抜きでの呼ばれ方はされなくなった。
最初はどこかむずがゆいような感じがしたが、それもすぐに慣れた。
そんな日々が19年も続いた。
人生の大半を、肩書きとともに歩んできた。
それが、今回のセミリタイアで、すべて消えてしまったのだ。
これは呼称だけの問題ではない。
「肩書きがある」ということは、「組織に属している」ということ。
つまり、今までずっと何かの組織に所属し、その庇護の下で生きてきたのだ。
そして、そんな私を取り巻く周りの人々も、その組織に属する人間として私を認識し、私との関係を保ってきたのだ。
セミリタイアして肩書きがなくなるということは、その一切がリセットされるということ。
冠が何もなくなって、ただの“私”になってしまった。
そこに不安はないのか?
定年を迎えて、一線から身を引いたあとも、昔の感覚から抜け出せないでいる男性は多いらしい。
名刺を捨てられず、いつまでも勤めていた会社にしがみついてしまう。
それを、「会社人間」とか「社畜」とか言って蔑むのは簡単だ。
でも、仕方ないよね。
だって、その人の人生は、その会社抜きには語れないんだもの。
その人が一番輝いていた時間は、会社の中にあるんだもの。
それを否定されることは、人生を否定されるのと同じことだ。
自分はそんな老後を送るつもりはなかった。
会社がなかったら、人生の意味も半減するような、そんな生き方はイヤだ。
私の人生は私のためにあるのであって、会社のためにあるのではない。
肩書きがなくなって困るようでは、そもそも困るのだ。
不安? あって当然です。
だからこそ、離れられないような組織に属しているのだったら、なおさら離れられなきゃいかんのでは?
私はセミリタイアして、それまで保管してあった自分の歴代の名刺を、すべて破砕して捨てた。
だって、持っていてもしょうがないもんね。
「自分の歩んできた足跡」と思えば、何も捨てる必要はないんだけど、それよりも持ってるのが未練がましいと思った。
会社に未練がないのに、名刺に未練があるって、変でしょ。
でも、肩書きがなくなっても残るものこそが、今の自分にとって本当に大切なものだ。
会社を辞めたら消えてしまう人間関係なんて、私の人生にはそもそも不要。
大切なものだけを大切にする人生を、これからは送っていきたい。
無職になると肩書きがなくなって…全然困りません!
学生時代は、学校名が自分の名前の前についていた。
自ら名乗ることは少ないけど、初対面の相手から最初に訊かれるのは、「どこの学校に通ってるの?」だった。
学校内であれば、「○年○組の」という肩書きがつく。
高校までは帰宅部だったけど、大学では体育会に入ったので、「○○部の」という肩書きも増えた。
アルバイトもしていたので、お客さんや、その業界の人と話す時は、バイト先の店名が最初についた。
就職して社会人になると、今度は会社名が肩書きとなった。
初めて名刺を作った。
相手に渡すときは、自ら「○○○○の」と、社名を頭につけて自己紹介するのが当たり前になった。
入社して5年目になると、今度は役職がついた。
それまでは「○○さん」だったのが、ある日を境に「○○主任」と呼ばれるようになった。
それ以降、社内外を問わず、仕事の関係者からは、役職抜きでの呼ばれ方はされなくなった。
最初はどこかむずがゆいような感じがしたが、それもすぐに慣れた。
そんな日々が19年も続いた。
人生の大半を、肩書きとともに歩んできた。
それが、今回のセミリタイアで、すべて消えてしまったのだ。
これは呼称だけの問題ではない。
「肩書きがある」ということは、「組織に属している」ということ。
つまり、今までずっと何かの組織に所属し、その庇護の下で生きてきたのだ。
そして、そんな私を取り巻く周りの人々も、その組織に属する人間として私を認識し、私との関係を保ってきたのだ。
セミリタイアして肩書きがなくなるということは、その一切がリセットされるということ。
冠が何もなくなって、ただの“私”になってしまった。
そこに不安はないのか?
定年を迎えて、一線から身を引いたあとも、昔の感覚から抜け出せないでいる男性は多いらしい。
名刺を捨てられず、いつまでも勤めていた会社にしがみついてしまう。
それを、「会社人間」とか「社畜」とか言って蔑むのは簡単だ。
でも、仕方ないよね。
だって、その人の人生は、その会社抜きには語れないんだもの。
その人が一番輝いていた時間は、会社の中にあるんだもの。
それを否定されることは、人生を否定されるのと同じことだ。
自分はそんな老後を送るつもりはなかった。
会社がなかったら、人生の意味も半減するような、そんな生き方はイヤだ。
私の人生は私のためにあるのであって、会社のためにあるのではない。
肩書きがなくなって困るようでは、そもそも困るのだ。
不安? あって当然です。
だからこそ、離れられないような組織に属しているのだったら、なおさら離れられなきゃいかんのでは?
私はセミリタイアして、それまで保管してあった自分の歴代の名刺を、すべて破砕して捨てた。
だって、持っていてもしょうがないもんね。
「自分の歩んできた足跡」と思えば、何も捨てる必要はないんだけど、それよりも持ってるのが未練がましいと思った。
会社に未練がないのに、名刺に未練があるって、変でしょ。
でも、肩書きがなくなっても残るものこそが、今の自分にとって本当に大切なものだ。
会社を辞めたら消えてしまう人間関係なんて、私の人生にはそもそも不要。
大切なものだけを大切にする人生を、これからは送っていきたい。
無職になると肩書きがなくなって…全然困りません!
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現在Taoさんの投稿を最初から読んでいます。少しづつですが。
とても参考になる記事が多くて楽しいです。
確かに肩書きなど無くなっても困らないですね。そういう目で見られない今の方が気が楽なのではないでしょうか。何にも束縛されない自由な人生に肩書きは不要ですよね。
遅くなりましたが、今年もよろしくお願いします。